みなさん少し前になりますが日本テレビにて放送されたのテレビ番組『THE DANCE DAY』はご覧になられましたでしょうか??
日本を代表するトップダンサー達が集まりパフォーマンスをしNo.1を決めるこのTHE DANCE DAY、
とってもスキルフルでエモーショナルでエンタメ性抜群なチームが16チーム決勝大会に進まれたのですが、その中で特にどまつりを長くやられている方は
あ!!”あの”チームが!!
と思われたことでしょう。
そして”その”チームはなんと決勝大会の中でもFinalラウンドにも進出され確実に日本中にその名を轟かせたこと間違いなしです!!
そうです。
そのチームを今回インタビューさせていただけることになりました!!
青春応援団 我無沙羅さんです!!
(せいしゅんおうえんだん がむしゃら)
いや!まじで!これはすごいことです!!
日本中にその名を轟かせ、かつ世界進出も果たされている我無沙羅さんにインタビュー出来たこと、
すごく嬉しいです(*´ω`*)
さて、今回インタビューに応じていただいたのは、
〇 立ち上げの張本人そして代表をやられている杉浦さん
〇 インストラクター・振付・ディレクターの川口さん
にそれぞれお話を伺いました!!
などなどみんなも気になること、聞いちゃいました!!
全4回!お楽しみに♬
チーム結成はやはりアレがキッカケだった!?
よろしくお願いします!
我無沙羅さん最近の活動が全国規模かつ以前はJAPAN EXPO(パリ)にも出られていたということでかなり幅広く活動されているんですがそもそもの活動拠点はどちらなんですか?
愛知県刈谷市です。
練習場所は安定して刈谷市で練習しているわけではありませんが近くの知立市や碧南市の施設なども借りて活動しています。
結成の話にもなってくるんですが、刈谷市で活動を始めた経緯は何だったんですか?
元々僕が高校3年生の夏の高校最後の体育大会の応援合戦で是が非でも優勝したかったんで
す。
他のチームと差別化を図って圧倒的に勝ってやろうと思ったんです。
我無沙羅の最初はやはりというか応援合戦だったんですね。
そうです。
そして周りを見渡した時に、
「名古屋でにっぽんど真ん中祭りっていうのが盛り上がってるらしい」
と話を聞いて、「じゃあ踊りだったらそういうお祭りに行ったら色々学べるものがあるんじゃないか」ってことで当時刈谷市で立ち上がったばかりの歓喜団に飛び込んだんです。
良くも悪くも入り口間違えたかなって(笑)
歓喜団さんは以前インタビューさせていただきまして、立ち上げは刈谷市と言ってましたね。
そこはお一人で飛び込んでいったんですか?
完全に一人で飛び込んでいきました。
ほんとにずぶの素人だったのでひたすら練習して、緊張や恥ずかしさを乗り越えてお祭りに出たら
めちゃくちゃ楽しいじゃん!!って。
その最中に大学生になり、大学1年生の夏は歓喜団で出るんですがその後に
「応援合戦をどまつりにぶつけてみたら面白いんじゃないか」
って思い始めたんです。それがキッカケですね。
その他にもいろいろな選択肢で悩む中で夏が近づいてくると「あ、そういえば去年(高校3年生)は応援合戦やってたなぁ」「あ、応援合戦面白いなぁ」と思い出していたタイミングでもあったので。
そこから片っ端からいろんな人に話して、いろいろ心折れる経験を繰り返して(笑)
あっちからこっちから引っ張ってようやく1人目が見つかったのが2003年の11月。
そこを結成としています。
どういう方々に声を掛けていったんですか??
家庭教師で教えていた子の同い年のお兄ちゃんとか、
友達をつくるために入った大学のテニスサークルで仲良くなった子とか、
バイト先の同じ中学校の子とかです。
ただ18.19の恥ずかしがりやの野郎なんでこんなことやりたいんだよね、っていうことを集めて話するじゃないですか。
ましてや皆お祭りも知らない状況だったんで「ふーん」で話終わっちゃうんですよ。
で「(ミーティング終わって)じゃあカラオケ行こうか」って行って(笑)
そんな僕が一方的に喋ってカラオケに行くっていうカラオケサークルでしたね。
ホント地道な声掛けからだったんですね。
その翌年からどまつりには出られたんですか??
そうですね。
多分一覧で見てもらった方が早いと思うので・・・(一覧表をまとめてくださいました。)
ここから我無沙羅さんの歴史を4つに分けてお話いただきました。
我無沙羅第1期ーどまつりありきー
第1期はどまつりありき。
どまつりに出るためのチームでどまつりに向けてメンバー集めて作品をつくっていく。
で終わったらその作品でいろんな秋祭りに出る。
結成から第6回~第8回のどまつりまでは僕が大学生の間ずっと我無沙羅をやり続けてました。
ただやっぱり僕らの代が年長者で大学卒業して就職でバラバラになり活動を継続するのが難しくなり、2007年3月の自主公演「汗と涙の卒業式~あの頃僕らはガムシャラだった~」を以て活動休止っていう選択になりましたね。
そこから我無沙羅としては2009年からの第2期まで時間は空く形になります。
その休止期間は杉浦さんは歓喜団にまた戻られるんですね。?
立ち上がりが歓喜団でお世話になったので出戻りをしました。
その間としては08・09・10作品担当させてもらいつつ一時、代表なんかも預かりながら。
我無沙羅第2期ーやっぱり我無沙羅がやりたいー
我無沙羅の第2期再開が2009年で杉浦さんが歓喜団で代表をやられていたのも2009年ですよね?
これはどういう経緯なんですか??
第2期はどのようにして始まったんですか??
立ち上げ初年度から関わってくれた島崎という子がいるんですが、社会人になって色々これまで我無沙羅で使ってた時間をいろいろな趣味で埋めようとしたけどやっぱり我無沙羅楽しかったなって思い返してくれて。
やっぱりまた我無沙羅やりたいんだけどやってもいいかな?
って言ってくれてじゃあやろうよって。
素敵な話!!
僕は当時歓喜団でしっかりポスト入っていたので、作品製作という形で関わりつつ島崎が代表として2期目を復活させました。
その年の第11回のどまつりのファイナルシードのオープニングアクトに出演させていただき、そこで披露したのは今でも代表曲として踊り継いでいる「一期一会~Stagia~」っていう作品でその初出しでした。
我無沙羅第3期ー転換点、「応援」の意味を成すにはー
その後2011年から僕が代表を預かって2015年までが第3期。
ちなみに実は歓喜団の次期代表として岩川(どっとのいわさん)を体育館に呼び出したの僕なんです(笑)
いわ : そうです。2.3か月後にあんなに嫌いだったどまつりに出てました笑
さらに3か月後には当時の代表が東京に転勤になるっていうことで次の代表どうするの?って話し合いになって、
ボクもうポケーってしてたんですよ。どうするんだろうなって。
1回しかどまつり出てないし入って半年も経ってない人間なんで。
そしたら代表に体育館裏に呼び出されて。
もう殴られるか告白されるかじゃないですか笑
そしたら次の代表やってくれないかって言われました。
引用:【インタビュー】どっとさん①~どまつり20周年のために~
つながった!!
どっとさんのインタビューでも出てましたね!!
岩川にバトン渡したのが僕です。
面白いなぁ!!
この経歴を拝見すると第1期~3期まではどまつりメインで出られているんですね。
また、2009.11.13.14.16.17と一般エントリーで出られています。
ただスタンスとしては「毎年夏にどまつりがあるからどまつり出ようよ」っていうわけではなさそうですね。
どまつりの外を意識しだしたのは第2期からですが、
私たちがやってる応援合戦って刈谷市を中心に西三河では当たり前のように経験して見てきているものですけど名古屋に行くだけで知らない人がめちゃくちゃいるんですね。
そういう知らない人に応援合戦を見てもらうためにどまつり以外にもやれる場所を探していたのがこの時期の活動なんです。
もっと多くの人に見てもらってこの面白さを知ってもらいたいというのがやっぱり原点なので、そのひとつの場所としてどまつりを最初選んだ。まぁどまつりが一番大きかったですし。
そこにぶつけてみたらどれだけ面白いだろうって思ったのがキッカケだったのでどまつりありきっていうのは間違いないんです。
ただもっともっとより多くの人にこの応援合戦の面白さを伝えていきたいなって思った時にどまつりのフィールドの中だけで勝負を続けていくのは僕らとしてもそこ以外、他にもあるんじゃないかって壁の外を見たかったというか。
それが以降のイベントや舞台やテレビ、海外などの活動に繋がるんですね。
また、この第3期はチームとして大きな転換点があります。
2013年11月に福島に慰問で行かせてもらった経験です。
それまでは「応援合戦楽しいね、かっこいいでしょ」しかなかったんですが、東日本大震災キッカケにつくった「Yell~Esperanza~」という作品が
「応援って何なんだろうね」
って僕らとしても考え直すキッカケになったんです。
これを福島でやれた経験っていうのが、僕らがやってる応援合戦っていうのが見てくれる人の背中を推せて初めて「応援」って意味を成すんじゃないかなって考え始めたんです。
そこからより踊る時の気持ちの入れ方や、どういう風に伝わるかわからないけど伝わるように全力で頑張って踊ろうっていう気持ちの入れ方が出来るようになってきたのがここでしたね。
自分たちがやっていることが応援合戦をモチーフに演舞する、ではなくて本当の意味で「応援する」に変わった瞬間だったんですね。
その時からもっと知らない人へ、応援を届けるっていう想いが強くなって、いつかは海外で外国の人に見てもらったらもっと面白いんじゃないかって思うようになりましたね。
我無沙羅第4期ー世界に羽ばたくー
2016年以降が第4期でここから一気にステージが変わっていくんですよね。
キッカケは2月にやった自主公演「あなたのために叫ぶ舞台~Message from Gamushara~」っていう経験。
そして第18回のどまつりのU-40大賞受賞。
それらが自信になってより積極的に外にプロモーションをかけることができました。
それで11月のMOSHI MOSHI NIPPON FESTIVALに出演させていただいた際に、
「フランス行ってみない?」
ってお声がけいただいて。
そのイベントがJAPAN EXPOのキッカケになったんですね。
でそこから3年立て続けに行っていると。それにしても2019年もかなり詰まっていますね。
いやーほんとコロナ前のこの1年は濃かったですね。
やり過ぎましたね(笑)
そしてあのTHE DANCE DAYに繋がっていくわけです。
THE DANCE DAYの裏話については別の記事で公開しますのでお楽しみに♬
今回は以上です!!
いかがだったでしょうか。
今や日本全国に名を轟かす我無沙羅さんも最初は1人1人声掛けをし断られ心折れる経験をし、尚且つ活動休止も経験されていたんですね。
ただメンバーの一声に救われ活動再開。
そして福島の慰問で気づいた「応援の意味」。
自分たちがやっていることがどういうものなのか、に改めて気づきそこから更に多くの人に今まで以上に伝わる演舞になったのは間違いありません。
何のために自分たちは踊っているのか、
何のために今のチームにいるのか、
何のためにチームを立ち上げたのか、
そこって普段あまり意識しないことかもしれません。
ただ今回の我無沙羅さんのチームの変遷を読んで何か改めて考える、気づくキッカケになったら嬉しいなと思いました!!
第二回は我無沙羅さんの作品についてのお話です♪♪
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